Sunday, October 26, 2014

都市伝説化する浮世に


ムサシよ、よいか。 おぬしは今、ワシの言うことをよう理解できるようになっておる。 それはワシが言葉のぺてんにかけたのではなく、おぬし自身の力で 庵に籠り 5年もかけて書物を読みつぶしたゆえの真実であること。 大切になされ。 ... さて、おぬしが直面しているものは、 「では、理解なき者や事物と、どう向き合えばよいのか?」 これじゃったな。 「向き合う必要がない」 これは、永劫不動の結論じゃ。 とはいっても、無視しろとか、切り捨てろということではない。 順を追って話していこう。 おぬしは、近頃そのようなことに出会うことが多いと感じるようじゃが それは至って多くなったわけではなく、これまでにもあったことが 鼻につくようになったというだけのことじゃ。 新たな境地に至り、おぬしの意識とは決別した違った世界に映っているからにすぎん。 コジロウじゃったかな? 己の所業と志の矛盾にすら気づかないまま、 おぬしより優位に立とうとする物言い。あやつも変わっとらん。なげかわしいことじゃな。 世の中にまっとうに生きる上で、人には良識というものが芽生える。 その良識の上で、やつは自己確立しているつもりになっているだけで、 「背伸び」をしていると印象づけていることには気づいてはおらん。 しかし、それはやつがおぬしに及ばぬということを露呈したことであり、 己の意志と周囲の印象の間に大きな違いができてしまっているのは、自明じゃろう? 「経営者になりたい」やつがそう言って訪ねてきてから1年になるが、 やつのしておることを、見てみるといい。その歩みは目標に近づいておるか? 無知なる者を囲い込み、ぺてんにかけて物を売る商売を、誰が聖職者と思えようか? 哀しいかな、笑われていることにも気づいていない なれの果てじゃ。 あの頼れるオコウも、老いてもなお無駄な余生を費やしておる。 おぬしを酒池肉林に遊び歩いていると根も葉もなく罵るのは、 おぬしが学び奔走する変わりばえから、幼い頃よく屋敷において 世話をしていた思い出にすがる寂しさからじゃろう。 オツメも、その様子ではしゃかりきの生娘に成長したのう。 そもそも多くの時間を費やすほどのことでもないのに、 次々とおぬしを焚きつけるように振舞うのは、このところ 克己の信念に進みつつあるおぬしの才学のほどを知りたいがため、 まずはおぬしを話に巻き込もうと躍起になっておるだけじゃ。 まあおぬしも、ときどきあの娘の旅籠で夜通し酒と肴が食らえるの だから、儲けものじゃろうが。楽しめる領分にだけ、お相手をしてやりなされ。 はてさて、マタハチの早合点は、おぬしもよく知るところじゃろう? 世の神羅万象に、あることないこと真実さながらに話したり、 まだ見ぬ科学の真実を、既存の論も読まずに言葉尻だけに振り回され おぬしを急き立てようとするのは、巷でよく見慣れておる野次馬じゃ。 あやつはやはり、錬金術師になるには程遠いようじゃ。 さて。 今遭遇していることを、おぬしは「理解なき者や事物」と言った。 しかし、そこはもっと俗にとらえてもよい。「理解の要らぬ者や事物」というあんばいでよいのじゃ。 この時勢、世の中にあふれた富と隆盛に退屈し、新たな未知を欲するのは 生物としての性(さが)にすぎん。西洋で言うところの「エゴイズム」じゃ。 近頃、人は都市伝説という娯楽を楽しむようじゃが、あれがよい例じゃ。 発信者は、都市伝説を根拠のない戯言として、娯楽にすぎないとしておるが、 真実味を持たせ人を翻弄するかのように、そのけじめをはっきりと見せない。 ゆえに「信じるか信じないか、あなた次第」という巧みな言葉をもちいるのじゃ。 悠久たる大河には、ときに今のような淀(よど)みも現れる。 このぺてんたる風潮や、おぬしの取るに足りぬ知人こそ、まさに淀みの表れじゃろう。 ムサシよ、おぬしの周りに飛び回る蠅どもは、所詮蠅であり人ではない。 したがって、必要なのは向き合うことではなく、ともに生きよということじゃ。 おぬしのように才学あり、将来に明るい者ばかりではない。 おぬしはそれに首を振れば、同じ穴の狢(むじな)となってしまうぞ。 おぬしがそれを、少なくとも切磋琢磨の相手ではなく ただの蠅ととらえ、 その箸で捕まえては捨て、心身の鍛錬に利用すればよいのじゃ。 おぬしは、歳月を積みこの悠久の大河を知りつつある。 着実にその流れを読みながら、わたり始めておる。 訓をくれてやれ。言葉ではなく、おぬしの功をもってな。 おぬしにまともに見つめられていないと悟れば、 その者たちも少しは見込みがあるというもんじゃ。 さて見聞の時間じゃ。ふたたび町へ出向かれよ。